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    「ふうん、それもよからう」

    「いや、まあ。――後の分もありますよつて、黙つて預つといて下さい」

    口ごもつて、

    わきから又誰かが冷かした。

    坂路にかゝると、房一は自転車から降りて、押しながら登りはじめた。房一の恰好が円まつちく、不器用な図体であるだけに、自転車にとりついた姿はいかにも重たさうに見えた。十月に入つて間もない日は、自転車の金具の上だけでなく、下方の桑畑の透いて見える根つこにも路のわきの削りとつた赤土の肌の上にも一面にふりそゝいでいた。

    土手に立つている男は房一には見覚えのない男だつた。神原喜作だと聞いてもすぐには誰だか判らなかつたが、やがて、それが彼の借家している鍵屋の分家の当主で、ふだんはどこかの農学校の教師をしていてめつたに帰つたことのないといふ、あの喜作だと思ひあたつた。それにしても、どうしてこんな所へひよつこり姿を現したものだらうか、冬休ででも帰つて来たのだらうか。――

    「ねえ、高間さん。どうもこの追鮎は背中に掛り傷があるんで元気がないですよ」

    傷は三箇所を縫つた。

    「うん、あの程度だと別に影響はないんだらう」

    「ホリョ?」

    「いゝや、まだ」

    それは背広姿に、遠目にもはつきりと判る緑色のソフトをかぶつた男であつた。

    今、房一の顔に現れているのはさういふ怒気だつた。ただ、それは盛子に向けられているのでなしに、房一の内部に立ちはだかり、自ら押へつけしている、それから来る圧迫感だつた。――

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